メコン地域 「タイにおける環境意識の高まりと高環境負荷産業の域内移転」
2010年12月2日
アジア有数の国際河川、メコン河の流域に位置する国・地域一帯、いわゆる「メコン地域」には、生産拠点・市場としてのポテンシャルの高さおよびその地理的優位性から、日本、欧米諸国、中国、韓国など各国からのインフラ投資が集中し、近年、急速に開発が進んでいる。このメコン地域のうち、中国雲南省を除く5カ国(タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、ミャンマー)が加盟するASEANは、2015年のASEAN経済共同体(AEC)の設立に向け、ロードマップを着実に歩んでいる。さらに、ASEAN・中国自由貿易協定(ACFTA)によって、中国からメコン地域を含むASEAN全域までの関税障壁も撤廃されており、今後、ヒト、モノ、カネの行き来はますます活発化していくものと予測される。
ところが、メコン地域の中でも、日本をはじめ各国企業による投資が集積し、産業高度化の進むタイ、ベトナムと、未だ発展途上段階にあるカンボジア、ラオス、ミャンマーとの間では、国民所得、労働賃金、インフラ整備状況などの面において大きな格差が存在するのも事実だ。こうした中、近年、同地域でもっとも経済発展の進むタイ国内における環境問題意識の高まりに伴って、高環境負荷型産業のメコン地域内シフトの動きが起こりつつある。
<タイの石化産業集積地 マプタプット地区>
タイの首都バンコクの東部に位置するチョンブリ県からラヨーン県にかけての東部臨海地域は、約20ヶ所の工業団地を有し、数多くの日系企業が操業するタイ国有数の工業地帯である。その最南端に位置するマプタプット地区は、タンカー船用バースを有するマプタプット港に隣接しており、1988年にタイ工業団地公社(IEAT)によって工業団地が設立されて以降、タイにおける石油化学産業の一大集積地帯となっている。
近年、同地域の製造工場群からの排気および工場排水によって健康被害を被ったとする訴えが近隣住民らによって提起された。2009年3月には同地区で実施予定だった計76事業に対して行政裁判所から事業実施の差し止め命令が出され、日系企業を含む多くの企業が影響を受ける事態となった。
この一連の事業差し止め問題は、通常一般の公害訴訟という側面のみならず、未だ続くタイの政治的混乱に伴って生じた、「法制度の一部不備」という特殊な事情が相俟って、タイ中央政府、地方政府、近隣住民、環境保護団体に加え、タイに進出している自国企業への悪影響を懸念する外国政府や商工会議所までも巻き込んだ問題に発展。1年半以上にわたる議論の末、本年9月に中央行政裁判所が事業差し止めを解除し、現行案件に対する影響という側面では一旦の解決をみた。
しかしながら、環境負荷が大きいとされる石油化学産業へのさらなる将来的投資案件の認可に対しては、政府や専門家、地域住民など各方面から慎重な意見が相次いでいる。マプタプット地域では現在、同地域への今後の投資許可を判断するための地域キャパシティー評価が進められており、アピシット首相は「評価結果が出るまで、同地区のさらなる開発は延期されるべき」としている。
<高環境負荷型産業の周辺国へのシフト可能性>
深海港、パイプラインといった石化産業に欠かせないインフラを兼ね備えたマプタプット地域での開発が難しい状況となれば、石油化学産業は他地域へのシフトを余儀なくされる。現地報道などで、もっとも有力な移転候補地となると報じられているのが、ミャンマー西部、ホーチミンとバンコクを結ぶ南部回廊の西側延長線上に位置するダウェイ地域だ。
ダウェイ地域は、メコン地域の西側のゲートウェイとして、近年、産業界からもその重要性が指摘されている地域だ。その地理的優位性から、民間企業のみならず、タイ、中国など政府レベルでのインフラ投資計画が進んでいる。タイ政府としては、環境負荷の高い産業を自国に無理に止めおくよりも、ミャンマー・ダウェイとの間を結ぶ陸路の整備を進めて物流網を確保した上で、同産業のダウェイへの移転を促し、環境影響の負担を排除しメリットのみを享受するという選択肢もあるということだ。政府は今後、マプタプット地域住民をはじめとした世論に配慮し、石油化学分野の新規の投資認可に対して厳しい判断を下す可能性も予測される。
また、こうした流れは石油化学分野にとどまらない。発電所建設についても、国内各所での発電所設置計画が住民の反対運動により建設地の移転や計画延期などを余儀なくされている。このためタイ電力公社(EGAT)や複数の独立系発電事業者(IPP)は、隣接するラオス、カンボジアでの発電所建設を既に進めている。
<域内の環境・省エネビジネス環境の変化>
1980年代以降、日本企業を中心とした外国投資に牽引され、急速な工業化による発展を遂げてきたタイでも、産業発展と環境保護の両立を実現できるような産業構造への転換を目指す動きが顕著になりつつある。タイ投資委員会(BOI)は、省エネルギー、代替可能エネルギー分野および環境負荷の低い製品・化学品などの製造分野を特別投資奨励対象業種に定め、立地に関わらず8年間の法人税免税(上限なし)などの投資恩典を付与し、同分野への投資を促進している。タイは、アジアの環境・省エネ分野のビジネスチャンスを模索する企業にとって格好の市場となりつつあると言えよう。
他方、ミャンマー、ラオス、カンボジアなどの後発国においては、環境法規制などの制度は存在するが、実効性を伴っておらず、環境に対する国民の意識も未だ醸成の途上にある。今後想定される後発国への高環境負荷型産業の集積地シフトは、メコン地域全体としての問題解決にはつながらないため、後発国における早急な環境規制の実効性確立等に向けた対策が急がれるところだ。
今後は、国際機関や日本、欧米諸国などの先進国による協力のみならず、既に知見を蓄積しつつあるタイなど域内他国からのノウハウ移転も重要となっていくであろう。環境・省エネ分野の技術を持つ日本企業も、まず、ビジネス環境の整っているタイ、ベトナムでのビジネス基盤を確立し、追って後発国への横展開を検討していくケースが増えていくと予測される。メコン地域の環境・省エネビジネス市場は、萌芽期を経て、着実に成長期に移行しつつある。
(石毛 寛人)