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 タイ 「東部マプタプット工業地域 環境汚染・事業停止問題 解決への道筋」1

2010年7月6日

<石油化学産業集積地帯 マプタプット>

タイの首都バンコクの東部に位置するチョンブリ県からラヨーン県にかけての臨海地域は、約20か所の工業団地が存在し、数多くの日系企業が操業するタイ国有数の工業地帯である。その最南端に位置するマプタプット地区は、タンカー船用バースを有するマプタプット港に隣接していることから、1988年にタイ工業団地公社(IEAT)によって工業団地が設立されて以降、石油化学産業の一大集積地帯となっている。

このマプタプット地区における公害汚染問題が近隣住民らによって提起されたのが2007年。以降、現在までこの問題は決着に至っていないが、2009年3月、同地区で実施予定の計76事業に対して行政裁判所が事業開始の凍結命令を出して以降は、タイ中央政府、地方政府、近隣住民、環境保護団体に加え、タイに進出ししている自国企業への悪影響を懸念する外国政府や商工会議所などをも巻き込んだ、国家レベルのホットイシューとなっている。


<問題の経緯>


この問題の根本は、工業地域に立地する石油化学、鉄鋼等の製造工場群から排出される有害大気汚染物質および排水に含まれる汚濁物質によって健康被害を被ったと主張する地域住民が、事業の差し止めを求めて行政(国)を訴えるという、近年急速な発展を遂げたタイにおいて工業化がもたらす公害訴訟であり、典型的な「環境問題」である。ところがここに、「政治的混乱に伴って生じた法制度の不備」という政治的、法解釈的な問題が関係することで、事態は複雑化し、長期化の様相を呈している。

2006年9月19日、軍事クーデターによってタクシン元首相率いるタイ愛国党政権が崩壊し、軍部による暫定政権が発足。このクーデターにより、当時の「1997年憲法」はその時点で停止され、その後、国民投票を経て「2007年憲法」が2007年8月24日に公布された。この「2007年憲法」は、民主党政権が継続する2010年2月現在も存続している。「2007年憲法」の第67条②には、環境に重大な影響のある事業の実施を制限し、「環境アセスメント(EIA)の実施、健康アセスメント(HIA)の実施、住民および利害関係者からの意見聴取」という適切なプロセスを踏んだ場合のみ、例外的に実施を認めるとしている。環境保護に関する規定は「1997年憲法」にも存在し、EIAの実施は以前から義務付けていたが、「HIAの実施」および「住民および利害関係者からの意見聴取」の2項目が「2007年憲法」で新たに追加された形だ。

従って、2007年憲法が施行された2007年8月24日以降、環境に影響を及ぼす事業実施をする場合には、EIAに加えてHIAおよび住民・利害関係者からの意見聴取を実施する必要があるということになる。ところが、この憲法の規定が存在するにもかかわらず、HIA実施および住民・利害関係者からの意見聴取の対象となる業種や具体的実施機関(「独立環境委員会」)、プロセス等を定める関係法令がそれまで制定・整備されていなかったため、問題が生じることとなった。

タイ石油公社(PTT)やサイアムセメント(SCC)といったタイ企業の他、日系企業を含む外国企業が2007年8月以降に申請したマプタプット地区での新規投資プロジェクト計76事業は、健康アセスメントおよび住民・利害関係者からの意見聴取という2007年憲法に規定されたプロセスを実施せず、国家環境委員会(National Environment Board)から得た環境アセスメント承認のみをもって進んでいたのである。

これに対し、マプタプット地区の近隣住民が国を相手取り、事業認可は憲法違反であるとして提訴。2009年9月29日、中央行政裁判所は76事業に対して事業の一時停止を命じた。


<アナン委員会設置と手続き、対象業種の確定>


自国の経済の大きな柱である外国投資への悪影響を懸念したタイ政府は、本問題の解決に向け、元首相のアナン・パニャラチュン氏を委員長とした特別委員会、通称「アナン委員会」を2009年11月に設置し、手続きプロセスの制定やEIA・HIA実施対象業種の制定に当たってきた。

途中、2010年3月から本格化したタクシン元首相派の反独裁民主主義連合(UDD)による騒乱などの影響によって進行を大きく妨げられた結果約7ヶ月間を費やしながらも、2010年6月21日、アナン委員会は2007年憲法第67条②に定められた関連の法令、手続、対象業種選定を行って最後の委員会を終え、アピシット首相を委員長とする国家環境委員会に最後の対象業種リストをまもなく提出すると発表した。今後、独立環境委員会が法的手続きを経て正式に設立され次第、同委員会は解散することになる。

最大の焦点の一つとされていたHIAおよび住民・利害関係者からの意見聴取実施が新たに義務付けられる18業種(*)については、石油化学産業や発電所建設プロジェクト等、「環境に重大な影響を与える事業」に限定されることとなった。

2009年9月に差し止め処分を受けた76事業のうち11事業については環境への影響が軽微であること等を理由に既に処分は解除されているが、現在もなお差し止めを受けている65事業についても、今回の法制整備が完了した後には、法令に従ったアセスメントの実施によって、早ければ2010年内にも事業再開への道筋が開かれることになる見通しだ。


<今後想定される影響>

今回の問題が法制度の未整備というタイ政府側の落ち度に因るものであったにも関わらず、結果として日系企業を含む外資企業の投資プロジェクトが長期間にわたり凍結に追い込まれる事態となったことは、タイの法的安定性への信頼を根本的に揺るがしかねない。

ただでさえ昨今の政治的不安定さによってカントリーリスクが高まっているタイにとって、法的な安定性にまで疑問符がつけば、タイの投資先国としての信頼性低下は免れないであろう。現在、東南アジア地域ではもっとも日本からの投資が集積しているタイだが、今後、リスクヘッジとして他国への投資分散や撤退を検討する外資企業も出てくる可能性がある。

今回のHIA実施義務等の規制自体はあくまで特定業種に対するものであり、規制自体により多くの一般製造業種に対する直接的な影響という意味では、影響はごく限定的であると言えるだろう。

しかしながら、本件に関する報道は連日紙面を賑わせ、解決に向けてはアピシット首相自らがリーダーシップを発揮せざるを得ない状況にまで来ていることから、これを契機として、タイ国民の環境に対する関心や関係政府機関の意識は少なからず高まったといえる。

こうした流れを受け、今後、企業はコンプライアンス遵守、リスク回避の観点から、産業廃棄物、排水処理方法といった自社の環境対策をあらためて見直す必要が出てくることも考えられる。この観点から、環境・省エネ技術、機器のタイ市場への導入・販売拡大を検討する企業にとってのビジネス拡大の契機となる可能性もある。日本の技術に対する評価は元より高いだけに、規制の強化、機運の高まりが、今後の日本の環境・省エネ企業にとってのビジネスチャンスとなっていくことを期待したい。

(石毛 寛人)

*【環境に重大な影響を与える事業】   (2010年6月28日付 サイアムラット紙)
1. EIA実施が義務付けられているプロジェクトまたは世界遺産、歴史公園、遺跡、歴史学上法定区域、自然保護林、国際的に重要な湿地帯、第1級湿地帯に影響を及ぼすプロジェクト
2. 海洋または湖の埋め立てを伴なう場合
3. 防波堤または海洋の流れを変える遮蔽物の建設
4. 鉱脈における採掘
5. 工業団地建設
6. 石油化学工業
7. 鉱石及び金属の溶解、焼結処理(鉄鉱石、銅、金、亜鉛等)
8. 放射性物質の製造・廃棄・加工(病院、動物病院、学術・研究施設を除く)
9. 危険廃棄物の埋立地、焼却所
10. 感染性廃棄物焼却炉
11. 空港 (1,100m以上の滑走路が現存または拡張計画を有する場合)
12. 港湾(長さ300m以上または面積10,000平米以上の接岸地または100,000立米以上の水路を有する場合)
13. 容積1億立米以上のダムまたは面積15平米以上の貯水池
14. 灌漑(80,000ライ以上)
15. 発電所(石炭火力、天然ガス、コンバインドサイクル、コジェネレーション、原子力)
16. 河川主流域または国際河川への放水・合流(災害時または国家の安全に影響がある場合の一時的実施を除く)
17. 河川主流域への遮蔽物建設
18. 土中塩分の吸収

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